1986年に公開されたジブリ作品「天空の城ラピュタ」
初期の作品をリアルタイムで見ていたファンにとっては、ジブリの名作と言えば、ナウシカとラピュタ。
初めてラピュタを見たのは10歳のころ。
空飛ぶお城のラピュタという想像の世界観、同じ世代の少年少女が作品の中で冒険を繰り広げる姿、大人の世界観に圧倒された作品。
ラピュタという言葉の意味や空飛ぶお城という発想はどこから得たのか?
また、ラピュタは自然破壊への警告などメッセージ性の高い作品でもありますし、よく作品を観ると伝えいたいことは自然破壊だけではないようです。
もう一度ラピュタの伝えたいことを考察してみましょう。
\もう一度楽しむラピュタ/
無料立読み
Contents
「天空の城ラピュタ」概要
あらすじ
代々譲り受けた石を持つ少女シータ、石を狙う軍隊や海賊。シータは、石の秘密を知るために途中出会った少年パズーと「天空の城ラピュタ」を目指します。追ってきた軍隊のムスカはラピュタの生き残りでありシータの持つ石を使ってラピュタの王になり地上をも支配しようと企んでいました。ムスカの支配の野望を打ち砕くために、パズーとシータは「滅びの言葉」を使いラピュタを滅ぼします。
監督など
原作・脚本・監督:宮崎駿
「天空の城ラピュタ 」を考察
「天空の城ラピュタ」を見ていると誰もが疑問に思う、ラピュタという言葉の意味や、強烈なキャラクタードーラの正体を考察します。
ラピュタの意味
もしかしたらお空には、まだ人類に見つかっていない島があるのかも!?
「天空の城ラピュタ」を初めて見た10歳のころ、空にはもしかしたら人類にまだ見つかっていない島が存在するかも? という発想に衝撃を受けました!
大人になってからは、空飛ぶお城ラピュタという発想は宮崎駿監督が初めてだったのか? それとも何か他の作品からの着想だったのか気になっていました。
調べたところ、空飛ぶお城の島という着想は宮崎駿監督が発想したわけではなく、原作があったとか。
2022年 朝日新聞出版 |
ガリバー旅行記 |
ジョナサン・スウィフト |
1,999円⇒599円 *70%offクーポン使用可 |
ただ宮崎駿監督はガリバー旅行記の大ファンだったかというとそうではないらしく、子供時代にダイジェスト版か何かで見て記憶が残っていたそうです。
でも、飛行機で空飛べる時代なのにまだ見つかってない島なんてありえないわよ。
だから~、台風の雲に守られていて人類が近づけない世界があるのかもよ~
飛行機で空高く飛べる現代社会であっても、誰も近づけない雲に囲まれていていて手付かずの世界があり得るかもしれないからです。
もっと言うと、人類が全部何でも知っているということはあり得ないですよね。この地球の秘密だって分からないことが沢山あるのですカラ。
ドーラの正体
ラピュタの登場人物の中で、主役である少年パズーも少女シータもわりとあっさりした性格の持ち主で、特別個性的ではありません。
作品の中でひと際目を引く脇役キャラクターが海賊のドーラ。もしドーラがいなかったら、ラピュタの作品が与える印象はこれほどまでではなかったハズ。
「ラピュタ」に登場する女海賊ドーラを連想してくれるといい。病気がちだったので、あの肉体的活発さはなかったし、もう少し美人だったと信じたいが、精神的迫力はまさにドーラに通ずるものがあった。
ジブリの教科書
宮崎駿監督のご兄弟は、ラピュタのドーラについて以上のように述べています。
お母様は、宮崎駿監督がナウシカやラピュタで名声を博す前に亡くなられていますが、作品の中で息子に駿監督によって生きているのですよね。
ラピュタの伝えたいことを考察
「天空の城ラピュタ」を子供のころ見た感想と大人になってからもう一度見た感想を合わせて伝えたいことを考察します。
子供の視点
「天空の城ラピュタ」は管理人が初めて見たジブリ作品でした。当時10歳くらいで、TVで初めて見た時は、こんなアニメ映画見たことないし、すごく壮大で大人っぽいストーリーだと思ったことを覚えています。
多くのジブリ作品を見ましたが、管理人にとっては「天空の城ラピュタ」は一番好きな作品です。
全てのジブリ作品に言えると思いますが、ジブリ作品は主人公が10代前半の女の子であることが大半です。
そのため見ている子供は、主人公にそのまま感情移入し、主人公が冒険しているのと同じように自分も冒険しているように感じていたのです。
大人の視点
ラピュタの伝えたいメッセージを以下3つを考察しました。
考察1:仲間との助け合い
バズーとシータ、その他海賊の仲間たちと助け合い力を合わせながら、ラピュタを目指すというストーリー。
子供時代、自分の同じ10代前半の子供たちが活躍する姿に、自分がさも冒険しているような気持ちを重ねたものです。
海賊のドーラは非常に魅力的なキャラクターで、パズーとシータの手助けをしながら見守ってくれているのです。
年齢と立場が異なる者たちが、一つの目的のために力を合わせて一緒に闘い目標を達成するお話です。
考察2:人類の発展に対する警戒
1980年代といえば日本の高度経済成長期に当たります。日本の経済がぐんぐん伸びていて、日本人全体の生活が進歩していき豊かになっていきました。
今後人類はどんどん進化していきどうなるのか? このまま人類が発展すれば自然が破壊されて地球と人類のバランスが取れなくなるのではないか? といった不安を多くの人が持っていたともいえるでしょう。
このころのハリウッド映画でも近未来を描く作品が多く作られています。
映画では、自然と科学技術の発展がバランス感覚を失うことへの危機感が描かれています。
例えばラストシーンで、ラピュタの破壊からパズーとシータが木の根に引っ掛かって助かったとき、パズーが「木の根に助けられた」というセリフがあります。
コレは、私たち人類は自然に支えられている、守られている、それに気が付いていないが、それを失ったとき人類は危機にぶち当たるという意味ではないでしょうか?
しかしラピュタ公開から約40年経った日本は、40年前の日本人の気持ちとは異なるようです。
今の日本は、未来に対してどんどん発展していくという気持ちを持てないでおり、日本は豊かではなくなってきていると誰もが感じています。
そのため余り科学技術の発展とか、自然となはれていくというのを感じなくなっていて、むしろ発展することへの不安より、このままいけば日本は今までの生活より厳しくなる、世界での豊かさのランキングが下がることへの不安感の方が大きいのではないでしょうか?
考察3:権力者は実は弱い
ラピュタ王になり地上を支配したいと考えたムスカは、パズーとシータの滅びの言葉により敗北します。
ムスカは、王になるためなら自分の野望のためなら他人を犠牲にしても何も感じない男。そのために味方がいないとも言えます。
しかしパズーとシータと海賊はみな味方で、力を合わせてムスカと闘ったからこそ、勝つことができたのではないでしょうか?
一見強そうな権力者は見方がいても利害関係でのみつながっているため実は弱いということを伝えたかったのではないでしょうか。
その後
主人公の少年パズーと、少女のシータは、2人で滅びの言葉を使用して、ムスカの野望を打ち砕きます。
その後パズーとシータはどうなるのでしょうか?
小説版では、 2人が出会うまでにいた場所、パズーは炭鉱へ、シータはゴンドラの谷へ戻り暮らしています。
パズーもシータも2人とも両親のいない孤児ですので、故郷に戻らなくてはいけない訳でもないかもしれません。しかし故郷には家族が住んでいた面影や、今までの生活があるからです。
半年後、パズーがシータの元を訪れ再会するのです。その後2人がどうなるのか、同居するのかや結婚するのかなどは描かれていません。
でもきっと2人は結婚するでしょう、生活にはお金が必要なためゴンドラに住むシータが炭鉱で働くパズーの元で暮らすような気がします。